大切な人を亡くしたとき。
長く続けてきた仕事や役割を失ったとき。
あるいは、
喪失を経験したあと、人の心には独特の時間が流れ始めます。
頭では「もう元には戻らない」と理解していても、心のどこかでは、以前の景色の中にまだ立っている。
ふとした瞬間に、以前と同じように考えてしまったり、以前の日常が続いているような感覚がよみがえったりします。
そして次の瞬間、その時間がもう戻らないことに気づき、深い悲しみや空白を感じることがあります。
精神医学では、このような喪失のあとに起こる心の過程を「グリーフ(悲嘆)」と呼びます。
グリーフは病気ではなく、人が大切なものを失ったときに起こる、とても自然な心の働きです。
その時間は、たとえるなら『二隻(そう)の舟』のあいだに立っているような状態なのかもしれません。
一つは、これまでの人生を乗せた舟。そこには、失われてしまった大切な人や、かけがえのない思い出が乗っています。
もう一つは、これからの人生の舟。まだ見慣れない海へと進んでいく、新しい航海の舟です。
喪失を経験した直後、人はこの二隻の舟のあいだに立ち、揺れる海の上でバランスを取ろうとしていることがあります。
まだ以前の舟を手放すことはできない。けれど人生の航海は止まらず、新しい舟もまた、ゆっくりと進み始めている。
そのあいだに立つ時間は、不安定で、孤独を感じることも少なくありません。
しかし臨床の中で感じるのは、人の心には、
喪失とは、すべてを置き去りにして新しい航海に出ることではありません。
むしろ多くの場合、失ったものの記憶や意味を胸のどこかに抱えながら、それでも人生の海を進み続けることなのだと思います。
人生の航海では、ときに二隻の舟のあいだに立ち、どちらにも完全には乗りきれないように感じることがあります。
けれどその時間は、決して止まっているわけではありません。
人は、失ったものを忘れて前に進むのではなく、それを心のどこかに携えながら、少しずつ新しい海へと進んでいきます。
そしてある日ふと振り返ったとき、自分がずいぶん遠くまで航海してきたことに気づくのかもしれませ
失ったものを胸の中に抱いたまま、それでも人生の海を進み続けてきた自分に、静かに気づく日が来るのだと思います。
※題名の「二隻の舟」は中島みゆきの名曲でもあり、最近思い出し、聴いていました。愛や絆の深さを描いた重厚な作品ですが、別れや喪失を抱える人へ、繋がりの尊さと前へ進む強さを伝えるメッセージがあると解釈しています。
