~杉本博司「絶滅写真」展を観て~
先日、東京国立近代美術館で開催されている杉本博司さんの展覧会「絶滅写真」を訪れました。
杉本博司は、1948年生まれの写真家です。建築や彫刻、古美術など幅広い領域に関心を持ちながら、写真というメディアを通して、「時間とは何か」「見るとはどういうことか」といった根源的な問いを投げかけてきました。その作品には、人物や風景を写しながら、そこに流れているはずの時間を極端に曖昧にするものがあります。
いつも私の心に残るのが、〈海景〉と〈劇場〉という2シリーズの作品たちです。
〈海景〉シリーズでは、海と空の境界線だけが静かに画面を二分しています。
そこには、建物も、人も、船もありません。古代の海なのか、現在の海なのか。あるいは、人類がいなくなった遥かな未来の海なのか。写真の中には、それを決めるための情報がほとんどありません。海は、私たちが生まれるずっと前から存在し、私たちがいなくなった後も、おそらく存在し続ける。〈海景〉に写っているのは、ある一瞬の海というよりも、人間の時間を超えた海なのかもしれません。私たちはその海を眺めながら、自分が生きている時間の小ささにも気づかされます。
〈劇場〉シリーズでは、映画一本分の時間を一枚の写真に凝縮しています。
映画の上映開始から終了までシャッターを開き続けることで、そこに映し出されていた物語や俳優の姿は消え、スクリーンだけが白く浮かび上がる。本来ならば、映画には始まりがあり、途中があり、終わりがあります。しかし、そのすべてを一枚の写真に重ね合わせると、物語は消え、時間だけが残る。一瞬を切り取るはずの写真が、むしろ「時間そのもの」を写しているように感じられます。
この二つの作品を見ながら、精神科医・木村敏先生が考えた「時間」と「自己」について思いを巡らせました。
木村敏(1931―2021)は、日本を代表する精神科医・精神病理学者の一人です。京都大学医学部を卒業後、精神科医として臨床に携わりながら、ドイツ語圏の精神医学・哲学を背景に、統合失調症やうつ病などの精神病理を、「人間が世界とどのように関わり、時間をどのように生きているのか」という視点から考察しました。
木村先生の仕事を読むと、
「こころ」を脳の中だけに閉じたものとしてではなく、他者や世界との「あいだ」に生まれるものとして捉えようとする姿勢が見えてきます。人間の「自己」も、最初から完成したものとして存在しているのではなく、世界との関係のなかで、そのつど形づくられていく。
「時間」についても同じです。私たちは普段、昨日の自分と今日の自分を「同じ自分」だと考えています。過去を記憶し、未来を思い描き、その連続性の中に「自分」があります。
しかし、精神科の診療をしていると、その時間の連続性が崩れることで、人が苦しむことがあります。
うつ状態では、過去の失敗や喪失が現在を覆い、未来まで閉ざされたように感じることがあります。不安が強くなると、まだ起きていない未来が、今日という時間を支配することもあります。過去の出来事が、いま目の前にあるかのように感じられる。あるいは、まだ起きていないことを、すでに起きたことのように恐れてしまう。
つまり、私たちが生きている「時間」は、時計の針が刻む物理的な時間だけではありません。記憶された過去と、予想される未来。その「あいだ」にある現在に、私たちは生きています。だからこそ、同じ一時間であっても、人によってその長さは違って感じられます。楽しい時間はあっという間に過ぎるのに、苦しい時間はいつまでも終わらない。過去の一つの出来事が、何年経っても現在の自分を苦しめることもあれば、遠い昔の記憶が、ふとした瞬間に現在の自分を支えてくれることもある。
こころの時間は、時計のように均一には流れていません。
そう考えると、杉本博司さんの〈海景〉がもう一度違って見えてきます。
〈海景〉には、時間を示すものがほとんどありません。けれども、だからこそ、見る人自身の時間がそこに入り込む余地があります。子どもの頃に見た海。誰かと過ごした海。もう会えなくなった人と見た海。これから訪れるかもしれない海。同じ写真を見ていても、そこに立ち上がってくる時間は、一人ひとり違うのでしょう。写真は世界を固定しているようでいて、見る人の中では、もう一度時間を動かしている。
それは、診察室にも少し似ています。
患者さんのお話を聴くとき、私たちは「いまの症状」だけを見ているのではありません。
その人がどんな過去を生きてきたのか。何を経験し、何を失い、何を大切にしてきたのか。
そして、これからどんな未来(vision)を思い描いているのか。
その人が生きている時間全体に耳を澄ませながら、現在のその人を理解しようとします。
診察室で語られる「過去」は、単なる過ぎ去った出来事ではありません。その出来事が、いまどのような意味を持っているのか。そして、その意味がこれからどのように変わっていくのか。そこまで含めて、その人の「時間」を聴くことが、精神科の診療なのだと思います。ごく限られた診療時間であることを悩みつつ、ともに伴走し、「いま」を紡ぎ続けられますように。
「絶滅写真」というタイトルから、私は最初、「失われていくもの」について考えていました。けれども、作品を前にすると、むしろ「残っていくもの」について考えさせられました。過去の時間は戻ってきません。けれど、過去の自分が消えてしまうわけでもありません。経験した時間は、現在の自分の中に折り重なりながら、これからの自分の物語をつくっていきます。
「いま」とは、単なる現在時刻ではない。過去を抱え、未来を予感しながら、その「あいだ」で生きている時間なのだと思います。診察室では、過去を振り返るだけの場所でも、未来を予測するだけの場所でもない。その人の過去と未来の「あいだ」に、いま一緒に立つ場所なのかもしれません。





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