人は、人と人との関係に名前をつけたがります。
家族、夫婦、恋人、友人、同僚、上司と部下、先生と生徒。
名前がつくと、その関係を理解できたような気がします。
「この人は自分にとって、こういう人だ」と整理できることで、
けれど、関係に名前がつくことには、もう一つの側面があります。名前がついた瞬間から、その関係に「こうあるべき」
親なのだから。
夫婦なのだから。
上司なのだから。
友達なのだから。
気がつけば私たちは、たくさんの名前のついた関係の中で、
では、診察室における医師と患者という関係は、
もちろん、これは明確に「医師と患者」
そこには専門家として守らなければならない境界があり、
精神科では、さらに「診断名」をつけることもあります。
うつ病、適応障害、不安症、ADHD。
診断名をつけることで、目の前で起きていることを整理し、
診断はとても大切なものです。
しかし、診断名がその人そのものになるわけではありません。
「うつ病の人」になるのでも、
「ADHDの人」になるのでもない。
その人には、その名前では到底収まりきらない人生があります。
誰かの親であったり、子どもであったり、会社員であったり、
けれど、それらの肩書きを全部外したところにも、
私は、診察室がその「名前のついていない自分」
いわゆる「サードプレイス」とも少し違います。診察室は、
「本当は何がつらかったのだろう」
「どうしてあの言葉が、こんなに引っかかっているのだろう」
「自分は何を怖がっているのだろう」
「本当は、これからどう生きたいのだろう」
普段の生活では、
仕事をしている自分。親である自分。誰かの期待に応えようとしている自分。
そうしたものをいったん脇に置いて、自分自身を眺めてみる。
診察室で交わされる言葉には、
「まだ分からないですね」
そう言いながら、しばらく一緒に考える。精神科の診察には、
医師が患者さんの人生の答えを教えるわけではありません。その人の人生を代わりに生きることもできません。
ただ、普段とは少し違う関係の中で言葉を交わすことで、
そして自分の中に残っていた小さな希望を、
診察室を出れば、またそれぞれの日常に戻っていきます。親に戻り、会社員に戻り、経営者に戻り、学生に戻る。でも、入ってきたときとまったく同じ自分ではないかもしれない。
少しだけ自分のことが分かった。少しだけ見え方が変わった。明日をもう少しやってみようと思えた。
そんな小さな変化を持って、日常へ戻っていく。
診察室という場所が、病気を診断し、
それと同時に、
いろいろな名前から少し離れて、自分自身を見つめ、
そして、誰かから与えられるのではなく、
そんな場所でありたいと思っています。
そしてクリニックの外では、医師と患者という名前からも離れて、
同じ世界を生きる人として、「名前のない関係」でいられたらと思います。
